2013年06月20日

ブルースリーズ・ジークンドーのDVD


先日、歴史を動かす壮大なプロジェクトの打ち合わせをしてきた!

2013年秋、ブルースリーズ・ジークンドーのDVDの制作が開始され、年末には発売される予定である。発売元は、格闘技や武術系の映像制作では国内ナンバー1のシェアを持つ大手企業に決定した。

ジークンドー(JKD)は、ご存じの通り、ブルース・リーが創始した武術である。しかし、その実態は明らかにされることはなかった。過去において、世界各国でジークンドーに関するDVDが制作、販売されたが、どれも真実とはかなりかけ離れたものであった。

なぜなら、ジークンドーは一部の限られた(選ばれた)人にしか伝授されていないことが大きな理由である。ジークンドー創始に関わる歴史を知る人は少ない。実は、ジークンドーは、プライベートレッスン生の一人であったテッド・ウォン氏を実験台にして自らのインスピレーションと鍛錬にて創始した技術であった。

ブルース・リーの考えではジークンドーはあくまでも1対1のレッスンで教伝されるものであり、多くの人数に教えても修得出来るものではないと思っていた。又、ジークンドーには特別な技法など一つもなく、ただひたすらに長期間の努力による精錬が必要であると説いていた。

1973年、ブルース・リーは他界したが、この時点でジークンドーは90%しか完成していなかったが、ブルース・リーの死後、テッド・ウォン氏は15年の歳月をかけ、ブルース・リーから伝授されたことをリサーチし、教伝を一切変えることなく、純粋なブルース・リーズ ジークンドーを後世に伝承、テッド・ウォン氏が他界した2010年までに、残り10%を完成させていいたと言われている。

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今回のDVDは、ブルースリーズ・ジークンドーの正統継承者であるテッド・ウォン氏の弟子であり、継承者でもあるX氏が、ブルース・リーからテッド・ウォン、そしてX氏へと受け継がれた「ジークンドー」の教伝そのままを映像化することとなった。

これは、歴史的に考えても驚愕である。なぜなら、ブルース・リーが他界してから一度も本当のジークンドーの技術が世に出たことはなかったが、それが、他界して40年後の2013年に初めて世に出されるのである。

世界初である!これをきっかけに、世界の多くの人々が、ブルース・リーとテッド・ウォン氏が完成させた。「真実のジークンドー」を学ぶきっかけになってほしいと願う。



posted by 松田英貴 at 19:56| Comment(1) | TrackBack(0) | Bruce Lee

2013年06月03日

ロバート・リーが語るブルース・リーの死の真相


5月30日、ブルース・リーの伝記映画「マイ・ブラザー」の宣伝のために、実弟である、ロバート・リーが来日しイベントが行われました。当日は、ブルース・リーの熱狂的ファンでもある「しょこたん」も訪れ、盛大なイベントとなりました。

ブルース・リーの伝記映画は数々制作されましたが、どれも真実に基づく内容ではありませんでした。今回の映画は、実弟と実姉の証言を基に制作された内容であり、多くの人が知るブルース・リー映画とは異なりますが、真実のブルース・リーを知る映画としては最高の内容に仕上がっています。

今回に内容は、ブルース・リーがアメリカに渡る以前の話で終了しているが、制作段階においては3部構成で考えられていたようだ。ファンとしては、是非とも2部、3部と続いてほしいと願います。

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今回、ロバート・リーが来日の際、ブルース・リーの死の真相を語るのではないかと、一部のファンの間では盛り上がっておりましたが、真実は語られることはありませんでした。

しかし、ロバート・リーは、死の真相について、とても不可思議な言葉を残しました。

「兄の死は、受け入れがたい事実でした。家族として、長年彼の死の真相を知りたいと思っていますが、非常に難しい状況にあります。もし、真相を知るとなればDNA鑑定しか他に方法はないかもしれない・・・」

なぜ、DNA鑑定だったのか・・・

ここで、この言葉から私なりの仮説を立てます。

仮説1:ブルース・リーの死因は他殺であり、現場に加害者と思われる人間の血液や毛髪、皮膚の組織などが残されていた可能性がある。その証拠となる何かが残っているのだろうか。

仮説2:なんらかの事件に巻き込まれ、自身の識別が不可能ほどの損傷があった。そのため、葬儀の時のブルース・リーは本人ではなく、本人に似せたダミー人形である。本人は、行方不明か他の場所に埋葬された。

※ブルース・リーが生前に、香港黒社会との関わりを断り続けていた話は良く耳にする。黒社会との関係はジャッキーチェンや他の役者も認めていた。当時の香港映画界は黒社会との関わりがあったのは間違いないと思われる。

映画「死亡遊戯」は、仮説2と※の内容が合わさった内容に近くなる。原案はブルース・リーであるから、事実を映画として残そうとしたのではないか。


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posted by 松田英貴 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | Bruce Lee

2013年05月16日

ブルース・リーの死の真相とは?


1973年に32歳の若さで亡くなった香港のアクションスター、ブルース・リーの没後40周年を記念して伝記映画「李小龍(ブルース・リー) マイブラザー」が7月に日本で公開されることになった。製作総指揮、監修したのが実弟のロバート・リー氏(64)である。

これまでにも彼の半生を描いた作品や書物がたくさん作られてきたが、遺族から見ると違和感を覚えるものばかりだったという。そのため実弟ロバート・リー氏と実姉フィビー・リー氏が「家族から見た本当の姿を伝え、理解してほしい」という願いを込めてつくられたのが今作だ。

今月には弟ロバート氏が来日する。ブルース・リーの死後40年たった今も病死説の一方で“事件説”も完全に消えていない。ブルースは1973年7月20日「死亡遊戯」で共演予定だった香港の女優宅で頭痛を訴え、こん睡状態になり病院で死去。死因は脳浮腫と伝えられたが紛糾し、香港の死因究明裁判では死因不明となっている。

しかし、実弟ロバート・リーが、兄であるブルース・リーの、知られざる死の真相にも言及したいと話しているそうで、注目を集めそうだ。

しかし、死の真相がどこまで明かされるかは楽しみだが、不安材料も残る。それは、ロバート・リーの身の安否である。一説によると、香港の黒社会が関与していたなどという話も聞いている。また、あのアグネス・チャンもブルース・リーの死の真相には触れてはいけないとも言っていた。

はたまた、以前ある番組で、日本が誇るアクションスター倉〇氏がブルース・リーの死について問われた時に、「殺された」と言った直後に、番組はフェイドアウト、番組が再開された時には、倉〇氏の姿は消えていたなんて話もあるくらいだ。

下記に挙げる文面は、ヤフーの知恵袋に書かれていた内容である。信じるか信じないか・・・あなた次第です。

実は以前知恵袋で名前伏せて簡単に書いたことあったんやけど今回もうちょっと深く書くとや、質問者さんも言うとる武術界・映画界の他、警察の大物も関係して実はこれらは密接な関係があるんや。

70年頃の警察は黒社会よりもひどく賄賂さえ渡せば白と黒が逆になるし、警察官の3割が黒社会の組員でもあったし、映画界では黒社会「新義安」がほとんど牛耳っいて現「中国星」グループとして今も君臨している。

でこの「新義安」の前身が反清復明を掲げ洪拳を会の武術として行っていた秘密結社「天地会(洪門)」なんや。もっと言うと現中国マフィア三合会(トライアド)などの黒社会のほとんどの源なんやなこれが。

まぁこれらを踏まえて暴露に至った経緯としては当時関係している人物たちの死や高齢により生命の危険性がないので真実を語ったつうことでゴールデンハーベストの宣伝部長杜惠東と闇試合の見届け人の一人元香港武術会の会長に付き添った弟子の話をまとめるとや、

ブルース・リーの傲慢な態度に不満感じていた(実際はブルース・リーの革新な武術に対する保守派の不満)武術界、特に香港査拳の会長の子にして俳優で香港フライ級ボクシングチャンピオン劉大川が名声高まるブルース・リーが気に食わないことが警察部長ケ生に知られることになり実際どちらが強いか試合を画策したんや。

ただ法令で私的試合は違法やさかい20数名の大物の武術家や関係者のみで他言無用を絶対条件としてケ生の私有地で行われた。

決着は速かったで。

ブルース・リーの足を抑え込めば勝てると思っていたらあまりにも速くモロ食らってアバラ3本折られて病院行きになり、そのまま引退してしまったんや。

突然の引退に色々な憶測が飛び交い、発案者のケ生に疑惑が持ちあがったんでそのまま逃亡、事件は闇に。しばらくして「燃えよドラゴン」のアテレコをしていたブルース・リーは突然倒れ意識不明になり、病院で目が覚めた時の最初の言葉が「俺の死が近づいてるな」

それからは突然死に至るまでは速かったんやがここでベティ・テイペイの暴露がでるんやが、愛人関係と言われているが実際は親密な友人関係であり、ブルース・リーには武術を教わっていたそうや。であえて世間からは罵声を浴びせられたり、ある人物には自殺を強要させられてもいつか真実が話せる時まで生きようと。

で言うには当時彼氏である人物に頭痛薬として大麻を吸わされていたことで脳に障害を受けたことやブルース・リーが死んだ時はその場にいなく当時友人たちと食事する予定で気分の悪くなったブルース・リーが一人で近くにあったとテイペイ宅で休んでいたので友人と一緒に迎えにいったところ死んでいたんやが、ある異変を感じて先にレイモンド・チョウに連絡しどう収拾するかつうことで自分だけですべてを受けることに。

で結局はその人物の名は語られなかったんやけど香港では察しが付くんでやっぱりやばくて誰も語ん。そういうことでわても名は出さんのでキーワードは「元夫」や

当然香港の俳優たちは口が裂けても言えんやろみな恩恵うけとるから、あとリンダ夫人も家族考えると黙っている方がええやろ、証拠ないし。

せやから一見試合とは関係なさそうに見えるんやけど、ブルース・リーは黒社会の誘いに全くのらんかったのと、プライドと嫉妬(チョウユンファも似たような悲惨な目に遭ってる)、あとは推測やけど香港ではこういう闇試合には賭けとして大金が動くのはごく当たり前やから負けると誰にとばっちりが及ぶつうことやな。

ほなさいなら

あっ、それとや逃げたケ生やけど実はブルース・リーの甥弟子でイップ・マンの老後のために詠春体育会の設立し、中国国術総会の会長でもあったんやがすべて失ったでぇ


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このソースを基にいろいろと調べた結果がこれです・・・ワン・・ツー・・スリー

キーワード「元夫」を中心に調べていくと・・・「元夫」の正体は、「CH」であり、当時はアクションスターでもあった。(〇〇電影公司の創設者であり、誰もが知っているアクションスターを世に送り出している会社)

ブルース・リーの愛人として騒がれていた、「元夫」のキーワード通りにベティ・ティンペイの元旦那らしいです。ブルース・リーの愛人と騒がれていた当時も「CH」とは恋人関係だったらしい。

男女感のもつれなのか、「CH」も当時はアクションスターとして活躍していたので、ブルース・リーに対しての嫉妬なのか・・・

「CH」は、当時、香港の映画界の支配権を掌握していた「新〇安」の幹部を兄に持ち、親父も当然ながら、そっち系の方らしいとの噂。

この「CH」がブルース・リーの死に関わってたとしても、香港映画界では語るのはタブーとなるわけです。

posted by 松田英貴 at 21:01| Comment(1) | TrackBack(0) | Bruce Lee

2012年03月19日

ブルース・リーを愛する・・・


(THE STRAIGHT LEAD 一部引用)

この30年以上もの間、いわゆる「ジークンドー・インストラクター」と呼ばれる者が、ブルース・リーが開発していない、もしくは一度も練習していないような技術を教えてきた。

例えば、カリやシラットのような東南アジアの格闘技をジークンドーと偽って表現してきた。実際、ブルース・リーの書き残したものの中にはそれらに関する記述はどこにもない。

ジークンドーはカリやシラットではない。もっと確実に言えることは、あるジークンドー・インストラクターと呼ばれる人が提唱しているような「27の格闘技のごった煮」でもなく、ジークンドー・ブレンドでもない。

ブルース・リーの私的記録の中には、西洋のボクシングとフェンシング、そして初期の頃に詠春拳に関するものがあるが、それ以外に他の武術に関する踏み込んだ記録はない。

過去、現在において、ブルースリーズ・ジークンドーの第一世代正統継承者は「Ted Wong 師父」一人です。1967年、知人の紹介でブルース・リー師祖がロサンゼルスチャイナタウンにオープンしたスクールに行き、弟子入りをする。

数ヵ月後ブルース・リー師祖本人の意思により、プライベート・スチューデントとなると同時に、ワークアウト・パートナー兼スパーリング・パートナーとして数多くの経験を積むこととなる。

ブルース・リー師祖とのレッスンは、師祖が他界する1973年まで続けられ、1973年当時90%まで完成していた師祖独自のスタイル“ジークンドー”を弟子の中で唯一伝承された。

去る2010年11月24日、テッド・ウォン師父が他界されました。享年73歳でした。そして、真のジークンドーの伝承は第2世代の時代へと移り変わりました。

真のジークンドーは、テッド・ウォン師父から認定されたインストラクターへと確実に継承されており、世界中で第3世代以降の生徒へと確実に普及、拡大し続けています。

私が、このような記事を書けば、良く思わない人達からのバッシングを受けますが、私はどの団体のジークンドーが本物であり、偽物であるかは一切議論しようとは思いません。ただ、ブルース・リーが生涯に渡り作り上げようとしていた「ジークンドー」の真実だけを伝えようとしているだけです。

ブルース・リーを尊敬し、彼が後世に残そうとした「ジークンドー」を学びたいと思うなら、本当の歴史を知り、真実の「ジークンドー」を学ぶべきだと思います。

もし、現代にブルース・リーが生きていたとして、ジークンドーでないジークンドーを教えていたとしたら、確実に「ストレート・リード」一発で伸されることでしょう。







posted by 松田英貴 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | Bruce Lee

Jeet Kune Do 正統伝承者


TED WONG <テッド・ウォン師父>

1937年11月5日、香港で生まれる。中国名は、黄 錦銘(ウォン ガンミン)

1953年アメリカ、カリフォルニア州に移民後、サンディエゴ大学にて化学を専攻し、自然科学の学位を修得する。

1967年、知人の紹介でブルース・リー師祖がロサンゼルスチャイナタウンにオープンしたスクールに行き、弟子入りをする。数ヵ月後ブルース・リー師祖本人の意思により、プライベート・スチューデントとなると同時に、ワークアウト・パートナー兼スパーリング・パートナーとして数多くの経験を積むこととなる。

ブルース・リー師祖とのレッスンは、師祖が他界する1973年まで続けられ、1973年当時90%まで完成していた師祖独自のスタイル“ジークンドー”を弟子の中で唯一伝承された。

ブルース・リー師祖の弟子の中で一番、師祖と共に時間を過ごした事実から、師祖の武術、哲学、思想やその他を最もよく知る人物である。

ブルース・リー師祖他界後、科学的および哲学的リサーチをしながら、自らにハード・トレーニングを課し、15年の歳月をかけて修得した。

晩年でも常に様々な修練を続け、“本物の武術家は老いて増々”といわれている事を真に体現した。また、武術だけでなくそのすばらしい人間性は誰もが認めることである。

ブルース・リー財団の代表メンバーとしての責務を果たしながら、師祖のアートを正確に後世に残すことを目的にプライベート・レッスン及びセミナーにて伝授した。


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ジュンファン・グンフー/ブルース・リー ズ ジークンドー正統継承図


ブルース・リー師祖(ジュンファン・グンフー/ブルース・リー ズ ジークンドー創始者)

ターキー木村師父(ワシントン州・シアトル)
・詠春拳、ジュンファン・グンフーを伝授される。
・ジュンファン・グンフーを継承

ブルース・リー師祖他界(1973年)以後
シアトルにおいて、師祖から伝授されたジュンファン・グンフーを後世に伝承し続けている。ブルース・リー財団ボード・オブ・ディレクターの一人

ジェームズ・リー師父(カリフォルニア州・オークランド)
・詠春拳、ジュンファン・グンフー、ジークンドーの基礎構造を教伝される。
・ジュンファン・グンフーを継承

ブルース・リー師祖他界(1973年)以後

1972年他界
※現在、オークランドでは、ブルース・リー財団ボード・オブ・ディレクターの一人であるアラン・ジョー師父がジュンファン・グンフーを教伝している。

ダン・イノサント師父(カリフォルニア州・ロサンゼルス)
・ジュンファン・グンフーを教伝され継承。
・ジュンファン・グンフー最高位を授かる。

ブルース・リー師祖他界(1973年)以後
師祖から教伝された内容を独自の解釈で理解した後、ジークンドー・コンセプト/ジークンドー・ブレンドを創始。現在、イノサント・アカデミーを組織し、世界中へ普及活動をしている。

テッド・ウォン師父(カリフォルニア州・ロサンゼルス)
・ジュンファン・グンフー、ジークンドーのすべてを教伝される。
・ワークアウト・スパーリング・パートナーであったことから、ブルース・リー ズ ジークンドーの技法を創始していく際の実験台となると同時に伝授される。

※ブルース・リー ズ ジークンドー最終形態を唯一伝授され継承する。

ブルース・リー師祖他界(1973年)以後
2010年他界
15年かけて師祖から伝授されたことをリサーチし、マスターする。
ブルース・リー財団ボード・オブ・ディレクターの一人

師祖の教伝を一切変えることなく、純粋なブルース・リー ズ ジークンドーを後世に伝承。


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ジークンドー真の創造に関する考察5


ブルース・リー ズ ジークンドー最終形態への進化

ブルース・リー ズ ジークンドーは、師祖独自による研究、インスピレーション、精錬をするハード・トレーニング、そしてテッド・ウォン師父を相手にきわめて多数のスパーリングを通した実験により、創り上げられてきました。

それは最終的に晩年の師祖が“ブルース・リーのスタイル”と言っていた通り、師祖独特のスタイルとなったのです。

独特のスタイルとは“精錬され尽したスタイルの無いスタイル”で一般的な伝統他流儀のスタイルとは異なります。しかし、“スタイルのないスタイル”といっても、確実に師祖独特の表現方法で存在しています。

ブルース・リー ズ ジークンドーは、以下に掲げる考察と哲学的原理、哲学的原則(ジークンドー哲学)を元に、自己実現の定理をもって科学的リサーチを進めながら精錬され、進化と発展を遂げていきました。

1970年8月13日、この日師祖は人生の中で最大の転機をむかえることとなります。

日常のハード・トレーニングによる身体組織の疲労と、アメリカ映画界にある人種差別から来るストレスの蓄積が重なった中で、ウォーム・アップなしでいきなり“グッド・モーニング・エクササイズ”という背筋を鍛えるトレーニングをしたため、第四仙骨の神経を損傷し、約半年間の入院を余儀なくされてしまいます。しかもその時の医師からは、一生武術をすることは不可能であると宣告されてしまうのです。

この時師祖は、武術への熱意をさめないようにするため、武術関係・科学関係・哲学/思想関係・心理学関係・医学関係・自己啓発関係など非常に多くの書籍を熟読しました。

特に師祖の心に深く刻み込まれたのが、インドの哲学/思想家:クリシュナムルティが述べた内容のものでした。これは『自己依存の概念』で、“他に頼って生きるのではなく、自分自身のすべてをもって人生を切り開いていく。”という思想から、実相世界である現実の中で行動していくものです。

師祖は、自らの考えが正しいことを知り、今の現実を変えるための努力をしました。その努力は身体をメインにトレーニングするのではなく、意識のレベル・アップを計るトレーニングでした。

ただし、身体のトレーニングを全くしなかったわけではないようです。テッド・ウォン師父は何回もお見舞いに病院に訪れていますが、とある日に訪れた時には、師祖が身体のトレーニングをしていたと語っておられます。

身体のトレーニングとは陽のトレーニングであり、意識をレベル・アップするトレーニングは陰のトレーニングです。つまり、師祖はこの最悪の事態を経験し、それを自らの能力で超えることにより陰陽バランスの調和を得て、退院した後のトレーニングにより持てる能力のすべてが向上したのです。

さまざまな知恵と知識を得、自己依存の概念を現実のものとした師祖は、入院中に7冊にものぼる自己の研究書を書き上げました。これが後に“Tao Of Jeet Kune Do”および“Bruce Lee's Commentaries on the Martial Way”などを代表とした書籍として出版されることとなったのです。

映画出演のため香港に移住した師祖は、非常に多忙な仕事に追われながらも、自身とジークンドーの更なる進化のため、ハードなトレーニングを自らに課していました。

 そしてついに“無法と無限”の境地に至り武術の達人となり、ジークンドーも約90%程まで完成したのです。この境地に関して師祖は『燃えよドラゴン(ディレクターズ・カット)』の中でそのいくつかを述べています。

また、“スタイルの無いスタイル”の表現方法を『死亡遊戯』の中で表現しています。当然その表現はアクション的に描かれてはいますが。

この時の師祖の“武術の達人”としての能力は、はるかにレベルの高いものを有していました。超常的な様々な種類のスピード・超常的な破壊力・心と身体の強大な耐久力・様々に変化していく状況に確実に適応することのできる能力など、想像もつかないレベルの境地に存在していたことは事実です。

この境地に至った達人の技法をテッド・ウォン師父は、最後となってしまうスパーリングの中で体験しています。その時テッド・ウォン師父は、『これが武術の究極なのではないか!』と思ったそうです。

師祖は、更なる進化と発展を目指していましたが、1973年7月20日、その夢は現実のものとはならない状態となってしまいました。しかしこの時点でジークンドーの歴史が終わったわけではありません。

若くして他界してしまった師祖ですが、遺産として残ったものは後世に受け継がれています。

特にブルース・リー ズ ジークンドー(ジュンファンジークンドー)最終形態に関しては、テッド・ウォン師父が唯一体得しており、年を重ねていっても常に能力を向上させていけることが、今現在では判明しているため、『将来ブルース・リー ズ ジークンドーが失伝してしまうという事態には決してならない!』と自信を持ってお伝えしたいと思う次第です!



posted by 松田英貴 at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | Bruce Lee

ジークンドー真の創造に関する考察4


ジークンドー創始に関する考察とその伝承

1965年に新しいグンフー・システム開発の計画を練り、1966年、グリーン・ホーネットの撮影のためロスアンゼルスに移住。1967年2月、L.Aのチャイナタウンに第3のジュンファン・グンフー・インスティテュートを開校しました。

この間師祖の研究は進んでいきましたが、本格的に様々なことを実践し始めたのは、グリーン・ホーネットの全撮影が終わった後でした。

L.Aチャイナタウン校で教えられていたのは、シアトル校とオークランド校で教えたものにボクシングとフェンシングや他流の考察が混じったもので、ジュンファン・グンフー後期形態です。

テッド・ウォン師父が開校日で見た師祖のデモは、ボクシング的な要素が強かったと語っておられることから、師祖のグンフー・システムの開発は結構進歩していたことになります。

ただし、これはあくまでジュンファン・グンフーとしての進化であって、この時点ではまだジークンドーとして創始されていたわけではありません。

師祖は1967年夏頃までに自分自身が開発していく武術に、一つの定義を設けました。その定義とは、フェンシングの理論から影響を受けたものであり、“相手の心や身体の動きをさえぎること”というものです。

アイデアとして『対戦相手を最も傷つきやすい状態にさせた中で、打撃をもってさえぎる。』ということで、この方法論を英訳すると“The Way Of The Intercepting Fist”となり、広東語で“Jeet Kune Do(截拳道)”と名づけられました。

ブルース・リー財団の発表によりますと、Jeet Kune Doという英名を表し、使いだしたのが1967年7月とのことです。ただし、截拳道という漢字を初めて創案したのは1967年1月であったそうです。

師祖はフェンシングのアイデアの中でも特に、Straight Thrustを重要視し、これを“Stop Hit”としてインターセプト理論に応用、実践していきました。

1967年、ロングビーチで開催されたカラテ・トーナメントにおける師祖のデモ(スパーリング)を見てもわかるとおり、リード側のストレート・パンチとフック・キックを多用しています。

実は、この二つの技法は、ジークンドーにとって非常に重要な技法で、師祖が相手をインターセプションする際、最も多用した技法なのです。

『フェンサーの剣がいつも一列に整列しているように、リード側のジャブは対戦相手に一定の脅しを与える。基本的にそれは剣を使わない西洋剣のフェンシングで、主要なターゲットは相手の目である。』

ゆえにこれをジークンドーのコア(核)とする技法としたわけですが、テッド・ウォン師父をワークアウト・パートナー兼スパーリング・パートナーとして抜擢し、様々なトレーニング方法を開発しながら実戦に効果的となるよう繰り返し繰り返し実験を行い続け、ジークンドーは師祖が目指す形態へと進化していきました。

テッド・ウォン師父の話では、スクールで教えていたこととプライベートで開発していたものは、違うものであったそうです。つまり、スクールで教えていたものはあくまでジュンファン・グンフーであり、プライベートでテッド・ウォン師父が実験台となり開発されていき、その時教えられたものがジークンドーなのです。

しかし、この時でさえもジークンドーは開発途上にあったので、非常に少数の弟子にのみ教伝されたそうです。また、以下に示すジークンドーを教えるための条件を、アシスタント・インストラクターも含めてすべての生徒に出していました。

1.ジークンドーの教伝はプライベート・レッスンであること。(1対1の教伝でなければ修得は困難となるため。)
2.他流儀のトレーニングと同時進行していないこと。(ジークンドー以外の流儀を同時にやると、修得が困難となるため。)
3.教伝された内容を他流儀に流さないこと。また、教伝された内容に他流儀の内容を組み合わせないこと。
  (師祖自身が開発・創始し、教伝したものの純粋性を保護するため。)

ジュンファン・グンフーとジークンドーは初期の創案・開発において、そのベース(基盤と構造)となるものが別のものから創られているため、当然表現方法が異なってきます。

ゆえに師祖はジークンドーの開発をしながら同時に、その修得の難しさにも気づきました。また、スクールの生徒で師祖から習ったことを他流(ケンポー・カラテ)と混ぜようとしたり、他流に教えた事件などもあったので、上記の条件を出したのです。この時、師祖は他流もやる生徒に対し、次のように語っていたそうです。

『僕から習うことだけで十分なのに、なぜ彼らは他の流派までも学びたがるのだろうか。』

こうしてリサーチしていくと、基礎構造や基本の初期段階を習えた生徒は若干おりますが、それ以上を学ぶことができたのは、生徒の中で一番師祖と時間を共にしたテッド・ウォン師父だけだったのです。

この事実は、師祖が常に記していたスケジュール帳から確認することができます。それと、テッド・ウォン師父の動きが師祖のものと非常に酷似しているという点と、教える内容や動きが他の師父たちのものと比較すると、違いがありすぎるという点から、ジークンドーとジュンファン・グンフーの表現方法に異なりがあることが判明します。

1969年になると師祖は、あまりスクールでの教伝に意欲をなくしてしまうようになり、教えに行く回数も減っていきました。つまり、詠春拳を母体としたジュンファン・グンフーを教えることに意欲をなくし、ジークンドーの更なる進化と非常に少数の弟子にのみ教伝していくことを望んだからなのです。

テッド・ウォン師父によりますと、師祖は自分自身の進化のためには常に熱意を持ち続けた人であったが、教えるということに関しては、あまり熱意を持った人ではなかったと語っています。

この年、師祖は詠春拳の兄弟子であったウィリアム・チョン(張 卓慶)に手紙を送っています。

『ウィリアム、僕はいまだに自分を中国人とよんでいるけど、中国伝統武術への信頼を失ってしまった。なぜなら基本的にすべての流派は陸の上の水泳みたいなものだからだ。たとえ詠春拳であっても。

だから僕が行っているトレーニングの傾向は、ヘッドギア・グローブ・胸当て・膝とすね当てなどを装着して、ストリート・ファイト(実戦)でより効果を発揮させる方向性を持ったものなんだ。

5年が過ぎた今、(打撃を)空振りしてしまうことになるトレーニングに浪費されてしまうのではなく、(実戦で効果的に勝利するという)目的のために最高にハードなトレーニングをやり続けてきたんだ。』

そしてついに1970年1月、3ヶ所すべてのジュンファン・グンフー・インスティテュートを閉鎖してしまい、グループによるレッスンは2度と行うことはありませんでした。以後、師祖に選ばれた非常に少ない生徒のみへ、プライベート・レッスンによるジークンドーのみの教伝がなされたのです。



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ジークンドー真の創造に関する考察3


フェンシングとボクシングに関する考察

師祖は、己の武術に足りない要素と要因を修得するため、様々な種類の流儀に関する書物を徹底的にリサーチした訳ですが、それらの書物の大部分はフェンシングとボクシングに関するものでした。

フェンシングに関しては、アルド・ナディ、ジュリオ・マーティンツ・キャステロ、フーゴ・キャステロ、ジェイムズ・キャステロ、ロジャー・クロスニールなどの書物を読み、特にアルド・ナディから強く影響を受けました。

ボクシングに関しては、ジム・ドゥリスコル、ジャック・デンプシー、エドウィン・ヘイスレットなどの書物を読み、特にジム・ドゥリスコルおよびジャック・デンプシーから強く影響を受けました。

ジークンドーの創始に最も強く影響を与えたフェンシングとボクシングですが、大変重要な点を述べておかなければなりません。それは、ジークンドーはフェンシングでもないし、ボクシングでもありません。また、両方の技法の混合でもないということです。加えてジークンドーに武器術はありません。

つまり、師祖は、両方の科学的分析をし、改変・改良し、常に変化してやまない状況での現実の戦いに適応するよう実験を繰り返し、特殊かつ独自の技法で構成された新しいスタイルを創始しようとしていたのです。

フェンシングもボクシングもジークンドーを開発していく際、新たなインスピレーションを得るための最高の材料となったということです。


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ジークンドー真の創造に関する考察2


他流儀のリサーチに関する考察

師祖がジュンファン・グンフーを改良、進化させる際、そしてジークンドーを開発、創始する際に、古今東西の武術/格闘技をリサーチしていたことは事実として知られています。

そのリサーチの大部分は、書籍からによるものでしたが、いくつかの流儀に関しては、実際の交流から行われたようで、師祖はこのリサーチに関して非常にストイックに熱意をもって研究に没頭したそうです。

今まで世間一般に伝わってきたことでは、『ブルース・リーが創始したジークンドーとは、古今東西の様々な武術/格闘技を研究し、各種の技術の長所を取り入れ、それらを組み合わせたものである。』という内容のものが非常に長い期間、世界中で信じられ続けてきました。

つまり、師祖は他流儀をリサーチした際、おのおのの技術の長所を抜き取り、状況によってそれらを組み合わせて実戦に応用していた、ということになります。

しかし、当時の歴史の真実を紐解いていくと、上記の説明が曲解された、つまり誤った解釈であることが数年ほど前より明確になってきました。

師祖は、流儀(特に伝統派)の形式的な概念が人々を分断しており、その教義が人々の自由への解放を束縛していると説きました。また、形式的な教義による戦い方では、常に変化してやまない状況の中では、決して適応していくこともできはしないと信じていました。

そのため他流儀をリサーチする際に、基盤となる考察をたてたのです。


『人間の五体・身体の体重・技術と戦略・物理法則・哲学的原理/原則、それらをたえず変化してやまない実戦の中で、最も効果的かつ効率的に使用(応用)できるようにするには、何をどのようにすればよいのであろうか。』

師祖は他流儀をリサーチする上でこの考察を基盤とし、各技術を実際にパフォーマンスし、その技術の裏に隠れている原理を解明したのです。様々な流儀の打撃技術、組み/関節技術などは上記の考察によってふるいにかけられ、一致に値しないものは即、除かれることとなりました。


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ジークンドー真の創造に関する考察 1


ジークンドー創始に関する初考

1964年、ウォン・ジャックマンとの対決において、師祖は自己の肉体と戦闘方法に様々な要素と要因が欠けていることを悟りました。今まで表現してきた詠春拳を含めた中国伝統武術が彼の求めた現実の戦いにおいて効果的ではないことに疑問を抱き始めます。

しかし、この戦いにおいて評判や名声が高まっていたので、オークランドのスクールでは、依然として詠春拳をベースとしたジュンファン・グンフーを教えていました。

この戦いが後にジークンドーを開発・創始していくきっかけとなったことは、今現在では有名な話となっています。師祖は他の様々な武術/格闘技のリサーチを開始し、今までのジュンファン・グンフーに取り入れ、さらに改良していきます。

きわめて多数の格闘システムに関する本を読み、そこから何が得られるのかをリサーチしたのですが、師祖が読み、リサーチした数々の本の大部分は、フェンシングとボクシングに関するものでした。

それらの本には師祖自らが書き記した多量のアンダーラインや注釈が見られますが、それらは師祖が求める一番重要なテーマであり、当時の師祖のグンフーに最も強く影響を与えたものだったのです。

1965年に師祖は一通の手紙を弟子のジェームズ・リーに渡しています。
『僕はグンフー・システムの計画を立てている。そのシステムとは主に詠春拳、フェンシングそしてボクシングの統合によるものである。』

こうしてジークンドー創始への第一歩がこの時より始まったのです。しかし、当然ジークンドーという新しいスタイルとしての構想はこの時点ではまだありませんでした。


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ジュンファン・グンフーおよびジークンドー創始の歴史3


第3期:截拳道(ジークンドー)創始
1966年、グリーン・ホーネットに準主役で出演のためカリフォルニア州、ロサンゼルスへ移住。同年、第1回カリフォルニア州カラテ選手権大会にてデモンストレーションを行なう。

1967年2月9日、チャイナタウンに第3の振藩國術館を開設する。生徒の約9割はダン・イノサント氏がケンポー・カラテの師範代であった事により、ケンポー・カラテの道場から連れてきた人達であった。

そしてこの日を境にジークンドー継承の将来を決定付ける出来事が起こった。それは将来唯一人のジークンドー継承者となる、テッド・ウォン師父がこの日のデモンストレーションと説明会に参加したことである。

この日デモンストレーションされたものは改良され進化したジュンファン・グンフーである。

同年5月、師祖は自らの意思でテッド・ウォン師父を家に招き、プライベート・ステューデントとする。テッド・ウォン師父がその理由を尋ねると師祖は「君がナイス・ガイだから!」と答えたという。

テッド・ウォン師父はこの時点ではまだ武術の初心者であったが、プライベート・レッスン、スクール・レッスン、セルフ・トレーニングにての努力により次第に実力を付け、師父のトレーニング・パートナー及びスパーリング・パートナーになるのである。

同年5月、ワシントンDCインターナショナル・カラテ選手権にてデモンストレーションを行なう。

同年6月、マディソン・スクウェア・ガーデンにて行われた全米カラテ選手権にゲスト出演する。

同年7月、ロングビーチで行われたインターナショナル・カラテ選手権において、デモンストレーションを行なう。このとき初めて全身防具を着用したフルコンタクト・スパーリングを、イノサント氏及びジェームズ・リー氏を相手に披露したが、ジークンドーの定義となる”インターセプション”を見事にパフォーマンスしている。

同年7月、師祖はジュンファン・グンフーとは別に新たな理論で創始している武術に、JEET KUNE DOと名付け、その名を使い出した。その理論とはフェンシングの“ストップ・スラスト”からインスピレーションを得たものである。

1968年、ワシントンDCナショナル・カラテ選手権でデモンストレーションを行なう。

1969年、スクールレッスンにて教伝(ジュンファン・グンフー)に次第に熱意がなくなり始め、レッスンをダン・イノサント氏にほとんど任せ、あまりスクールに行かなくなる。その分プライベート・レッスンがほとんどとなり、テッド・ウォン師父を実験台にして自らのインスピレーションと鍛錬にて創始した、ジークンドーの技法をさらに進化・精錬させていく。又、この時期にランキングシステムも廃止してしまう。

1970年1月、シアトル・オークランド・ロサンゼルスの3ヶ所の道場を閉鎖してしまう。理由はスクールの生徒達がジークンドーには何か特別な技法が有り、それを学びたいと幻想していた事によるものである。

師祖の考えではジークンドーはあくまでも1対1のレッスンで教伝されるものであり、多くの人数に教えても修得出来るものではないと思っていた。又、ジークンドーには特別な技法など一つもなく、ただひたすらに長期間の努力による精錬が必要であると説いた。

同年8月、ウォーム・アップなしでいきなりグッド・モーニング・エクササイズをやったため、第4番仙骨と周辺の神経を損傷し、約半年間の入院状態となってしまう。

初期段階ではベッドに寝たきりの状態であったため、多くの本を熟読してそれを知識とし、多くのメモを書き残した。この期間は常に内面(意識/心/精神)の強化に努めたのである。

次第に回復し始めた頃から少しづつトレーニングを再開し、肉体と意識の調和を会得する。

同年、息子のブランドンを連れて香港へ。ゴールデン・ハーヴェスト社と映画出演の契約をする。

1971年、香港に移住。「ドラゴン危機一髪(The Big Boss)」「ドラゴン怒りの鉄拳(Fist Of Fury)」に出演し、またたく間にスターダムにのし上がる。又、テレビ出演にてデモンストレーションし、ジークンドーのその驚異的なスピードと破壊力を視聴者に見せ付ける。

1972年、「ドラゴンへの道(The Way Of Dragon)」「死亡的遊戯(The Game Of Death)」2本を主演と同時に製作する。

1973年、「燃えよドラゴン(Enter The Dragon)」に主演、及び武術指導する。

同年5月、「燃えよドラゴン」のアフレコ中に意識を失い、病院に搬送される。
 同年5月、アメリカにて精密検査を受けに来た際、テッド・ウォン師父に最後のプライベート・レッスンを授ける。

この時師祖は3mの距離を不動の状態から、まばたきの速さで縮める事が出来る程の機動力を有していた。テッド・ウォン師父はこれを体験した時、「これが武術の究極なのでは!?」と思ったそうである。

この時点でジークンドーはほぼ90%まで完成しており、師祖本人の研究メモによると、私が教える武術は“ブルース・リーのスタイルである。”と書き残している。つまり最終的にブルース・リーズ・ジークンドーは師祖が創始したスタイルとなったのである。

同年7月20日、ブルース・リー師祖、香港にて死去。死因は脳浮腫と発表された。

1964年の事件がきっかけでジークンドー創始の構想が生まれ、様々な研究と実践の繰り返しによって徐々に進化を遂げていった訳だが、一番重要な事は師祖がどのような思考を持って、どのようなやり方でジークンドーを創始していったかである。

ジークンドーを創始していくにあたって師祖は特に、フェンシングとボクシングに注目した。この両方の西洋的格闘技は形式を重んじる中国武術や寸止め形式試合の空手と違って、真に相手を打ち倒す実戦的なものであったからである。

又、師祖は科学的及び哲学的な原理・原則をリサーチし、己の求める武術を創始、進化させるために様々なトレーニング用具及びトレーニング方法を考案、開発した。

1967年に行なわれたロングビーチ国際カラテ選手権でのデモンストレーション中にフルコンタクト・スパーリングを観察すると、リード側のストレート・パンチとフック・キックを多用している事が判る。ブルース・リーズ・ジークンドーにおいて最重要とされる技法である。

まだこの時点では高機動のフットワーク、ブロークン・リズム、様々な戦略法は開発されていないが、フィルムを見る限りではすでに基礎構造とインターセプションの概念は出来上がっていたと判断できる。

1973年には神技とも言える事を修得し、真に達人の境地に居た師祖だが、テッド・ウォン師父の話によると、1969年〜1970年頃にはそれに近い事はすでに出来ていたとの事である。多くのインスピレーションを受け、多くの時間を費やして努力し続け、多くの時間をテッド・ウォン師父を実験台にしながら実践し、研究を積み重ねていった結果が全てを物語っている。



posted by 松田英貴 at 18:21| Comment(0) | TrackBack(1) | Bruce Lee

ジュンファン・グンフーおよびジークンドー創始の歴史2


第2期:振藩功夫(ジュンファン・グンフー)創始
1959年、シアトルの地を踏んだブルース・リー師祖は、通っていたエジソン・テクニカル・インスティテュートのクラスメートへ無償で詠春拳を教え、その実力は瞬く間に広まることとなった。

このとき知り合い、後にジュンファン・グンフー伝承者となるのがターキー・木村氏である。

1962年、ターキー木村氏の勧めで月謝制の本格的な武術スクールを開設する。

技術的な核は詠春拳であったが、他の武術/格闘技の経験も取り入れられ、実戦向きに改良されていったため、振藩功夫(ジュンファン・グンフー)と名づけられた。ゆえに武術スクールの名称も「振藩國術館(ジュンファン・グンフー・インスティテュート)」と名づけられた。

同年、日本人空手家(黒帯)より挑戦を受け、Y.M.C.Aシアトルのジムにて実戦試合をし、わずか11秒でK.Oした。この時有効となった技術は、詠春拳の“ジク・チュン・チョイ”というストレートの連打攻撃法である。しかし、このとき師祖はチュン・チョイで床に倒れた相手の頭部に蹴りを入れたので、空手家は完全グロッキー状態となってしまった。

1963年、自費にて「基本中国拳法」を出版する。内容的には中国武術に関する原理/原則、基本功、鍛錬法であるが、技術の使い方に関しては、ジュンファン・グンフーが写真として掲載されている。また、本文中の直筆による絵のモデルは、中国大陸において”神拳大龍”として知られている華拳の伝承者、蔡 龍雲老師が出版した本より描写したものである。

1964年、カリフォルニア州オークランドへ移住し、1962年より弟子となったジェームズ・リー氏の家に住みつつ、第2の振藩國術館を開設する。同年7月、ケンポー・カラテ創始者のエド・パーカー氏より招聘され、ロングビーチで行われた「インターナショナル・カラテ・チャンピオンシップス」においてターキー・木村氏と共にジュンファン・グンフーのデモンストレーションを行う。

このきっかけにより、ダン・イノサント氏及び”アメリカテコンドーの父”と呼ばれたジューン・リー氏と出会い、交流が始まる事となる。同年末、伝統を重んじる地元の中国武術家達からのクレームを受け、それに反発したため挑戦者ウォン・ジャックマン(白鶴拳)と実戦試合をする事となる。

結果は師祖の勝利に終わったが、ジク・チュン・チョイで猛攻に攻めたために相手が逃げ廻り、それを追いかけて捕まえ、倒すまで約3分間もかかってしまった。

この事件がきっかけで、師祖は心肺機能向上の必要性と機動力向上の必要性を痛切に感じ、又、中国伝統武術の技術にも疑問を抱くようになった。そしてこれらの思いがジークンドーを創始していく引き金となったのである。

始祖がシアトル入りして1964年頃までに様々な中国伝統武術を研究している。蟷螂拳(北派・南派)・鷹爪門の摛拿・洪家門の虎拳と鶴拳・少林拳系の技術・楊式太極拳・その他兵器など。

これは師祖の研究ノートを見て取れるものである。しかし、これらのほとんどは本から学びえた事ではあるが、直線的且つ短打である詠春拳に曲線的な技法を加え、見事なまでに振藩功夫として昇華させている。

当時のフイルムを見ても理解出来るが、師祖のスピードはこの時点から既に速かった。特に1964年末の事件以降は更なる進化を追及し、西洋の格闘技(ボクシング・フェンシング・サバット)を書物などで研究している。ジューン・リーと交流した際もテコンドーの足技を経験し、それを独自の考えで改良した事実がある。


posted by 松田英貴 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(1) | Bruce Lee

ジュンファン・グンフーおよびジークンドー創始の歴史1


第1期:詠春拳と精武体育会
1953年、ブルース・リー師祖はケンカに負けたことが原因で香港詠春拳の門弟となる。師事したのは「香港詠春門の宗師」と言われていた葉問(イェップ・マン)老師である。

3年間正統門人として修練していたが、とある問題を起こし破門となってしまう。しかし、その後は兄弟子の張 卓慶(ウィリアム・チュオン)に個人的に学ぶことができた。

このことにより詠春拳で学ぶ型(小念頭・尋橋・標指)は修得することができたが、木人椿法118式の型は一部分しか学んでいない。また、兵器である六点半棍および八斬刀は学ぶことができなかった。

1958年、学生ボクシング大会へ出場し、3年間連続チャンピオンのイギリス人を詠春拳の技術を用い、1ラウンドでK.Oした。

1959年、精武体育会香港分会において4週間、中国北派拳術および中国南派拳術の基本功、および「功力拳」「節拳」などの型を学ぶ。師は香港分会総教練の邵 漢生老師である。

ちなみに、精武体育会は秘宗拳で有名な霍 元甲老師が1909年に上海にて設立した「体」「知」「徳」の三育を教育目的とする武術/体育専門学校である。ここでは北方の拳術および南方の拳術など様々な流派の門人達がお互いの存在を敬いながら交流をすることによって、己自身を更に磨き上げる場所でもあった。このことにより国家の繁栄をもたらすことができると考えられていたからである。

同年、詠春門のライバルと呼ばれる蔡李仏門の門弟から挑戦を受け実戦試合をし、相手に大怪我を負わせ警察沙汰となってしまう。この件により米国へと旅立つこととなる。

第1期において修得して実戦に生かされていたのは、まぎれもなく詠春拳である。他には、父から学んだ太極拳、試合で学んだボクシング、精武体育会で学んだ他の中国武術などが経験となって後に生かされることとなる。

また、兄のピーターがフェンシングをやっており、この頃の師祖のフェンシング・コスチュームを着た写真が残っているため、定かではないが兄ピーターよりフェンシングの技術の経験を受けている可能性もある。また、この時期より道教の思想をバック・グラウンドとしておき、後にジークンドー哲学の根幹をなすこととなる。


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ブルースリーズ・ジー・クン・ドーの真実


ジークンドーは、1967年の半ばにブルース・リー自身のスタイルに命名した名前です。その技法は1973年に他界するまで、変化そして進化していきました。

そころが、変化を是とするブルースの態度や考え方が、様々に曲解され、彼の死後、ジークンドーを彼の意図しなかったであろう方向へ向かわせてしまいました。

本来、ブルースが研究し練習してきたものとは、別の論法でくみ上げられたものが世間で幅を利かせるようになりました。

その代表的ものが、「色々な武術を練習して有効性を主軸として取捨選択して自らの武術を創造する」という論法です。

このことが、長年に渡り、ブルース・リーのアートであるジークンドーは多くのダメージをうけてきました。また、多くの人々がジークンドーを真に理解していないばかりにこのアートに危害を加えてきました。

これから、語られる「ジークンドーの真実」は本当のジークンドーを志す多くの人にとっては福音になりますが、一方で、ある人、団体ににとっては「不都合な真実」となることでしょう。

しかし、真実を語らずに、自らを師としてジークンドーを世に広めることは、ブルース・リーには大変失礼なことであり、ブルース・リーの築いてきた全てを否定するようなものです。

ブルース・リーを師と仰ぎたいのであれば、真実のジークンドーを伝えるべきです。


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