2012年03月19日

ジークンドー真の創造に関する考察4


ジークンドー創始に関する考察とその伝承

1965年に新しいグンフー・システム開発の計画を練り、1966年、グリーン・ホーネットの撮影のためロスアンゼルスに移住。1967年2月、L.Aのチャイナタウンに第3のジュンファン・グンフー・インスティテュートを開校しました。

この間師祖の研究は進んでいきましたが、本格的に様々なことを実践し始めたのは、グリーン・ホーネットの全撮影が終わった後でした。

L.Aチャイナタウン校で教えられていたのは、シアトル校とオークランド校で教えたものにボクシングとフェンシングや他流の考察が混じったもので、ジュンファン・グンフー後期形態です。

テッド・ウォン師父が開校日で見た師祖のデモは、ボクシング的な要素が強かったと語っておられることから、師祖のグンフー・システムの開発は結構進歩していたことになります。

ただし、これはあくまでジュンファン・グンフーとしての進化であって、この時点ではまだジークンドーとして創始されていたわけではありません。

師祖は1967年夏頃までに自分自身が開発していく武術に、一つの定義を設けました。その定義とは、フェンシングの理論から影響を受けたものであり、“相手の心や身体の動きをさえぎること”というものです。

アイデアとして『対戦相手を最も傷つきやすい状態にさせた中で、打撃をもってさえぎる。』ということで、この方法論を英訳すると“The Way Of The Intercepting Fist”となり、広東語で“Jeet Kune Do(截拳道)”と名づけられました。

ブルース・リー財団の発表によりますと、Jeet Kune Doという英名を表し、使いだしたのが1967年7月とのことです。ただし、截拳道という漢字を初めて創案したのは1967年1月であったそうです。

師祖はフェンシングのアイデアの中でも特に、Straight Thrustを重要視し、これを“Stop Hit”としてインターセプト理論に応用、実践していきました。

1967年、ロングビーチで開催されたカラテ・トーナメントにおける師祖のデモ(スパーリング)を見てもわかるとおり、リード側のストレート・パンチとフック・キックを多用しています。

実は、この二つの技法は、ジークンドーにとって非常に重要な技法で、師祖が相手をインターセプションする際、最も多用した技法なのです。

『フェンサーの剣がいつも一列に整列しているように、リード側のジャブは対戦相手に一定の脅しを与える。基本的にそれは剣を使わない西洋剣のフェンシングで、主要なターゲットは相手の目である。』

ゆえにこれをジークンドーのコア(核)とする技法としたわけですが、テッド・ウォン師父をワークアウト・パートナー兼スパーリング・パートナーとして抜擢し、様々なトレーニング方法を開発しながら実戦に効果的となるよう繰り返し繰り返し実験を行い続け、ジークンドーは師祖が目指す形態へと進化していきました。

テッド・ウォン師父の話では、スクールで教えていたこととプライベートで開発していたものは、違うものであったそうです。つまり、スクールで教えていたものはあくまでジュンファン・グンフーであり、プライベートでテッド・ウォン師父が実験台となり開発されていき、その時教えられたものがジークンドーなのです。

しかし、この時でさえもジークンドーは開発途上にあったので、非常に少数の弟子にのみ教伝されたそうです。また、以下に示すジークンドーを教えるための条件を、アシスタント・インストラクターも含めてすべての生徒に出していました。

1.ジークンドーの教伝はプライベート・レッスンであること。(1対1の教伝でなければ修得は困難となるため。)
2.他流儀のトレーニングと同時進行していないこと。(ジークンドー以外の流儀を同時にやると、修得が困難となるため。)
3.教伝された内容を他流儀に流さないこと。また、教伝された内容に他流儀の内容を組み合わせないこと。
  (師祖自身が開発・創始し、教伝したものの純粋性を保護するため。)

ジュンファン・グンフーとジークンドーは初期の創案・開発において、そのベース(基盤と構造)となるものが別のものから創られているため、当然表現方法が異なってきます。

ゆえに師祖はジークンドーの開発をしながら同時に、その修得の難しさにも気づきました。また、スクールの生徒で師祖から習ったことを他流(ケンポー・カラテ)と混ぜようとしたり、他流に教えた事件などもあったので、上記の条件を出したのです。この時、師祖は他流もやる生徒に対し、次のように語っていたそうです。

『僕から習うことだけで十分なのに、なぜ彼らは他の流派までも学びたがるのだろうか。』

こうしてリサーチしていくと、基礎構造や基本の初期段階を習えた生徒は若干おりますが、それ以上を学ぶことができたのは、生徒の中で一番師祖と時間を共にしたテッド・ウォン師父だけだったのです。

この事実は、師祖が常に記していたスケジュール帳から確認することができます。それと、テッド・ウォン師父の動きが師祖のものと非常に酷似しているという点と、教える内容や動きが他の師父たちのものと比較すると、違いがありすぎるという点から、ジークンドーとジュンファン・グンフーの表現方法に異なりがあることが判明します。

1969年になると師祖は、あまりスクールでの教伝に意欲をなくしてしまうようになり、教えに行く回数も減っていきました。つまり、詠春拳を母体としたジュンファン・グンフーを教えることに意欲をなくし、ジークンドーの更なる進化と非常に少数の弟子にのみ教伝していくことを望んだからなのです。

テッド・ウォン師父によりますと、師祖は自分自身の進化のためには常に熱意を持ち続けた人であったが、教えるということに関しては、あまり熱意を持った人ではなかったと語っています。

この年、師祖は詠春拳の兄弟子であったウィリアム・チョン(張 卓慶)に手紙を送っています。

『ウィリアム、僕はいまだに自分を中国人とよんでいるけど、中国伝統武術への信頼を失ってしまった。なぜなら基本的にすべての流派は陸の上の水泳みたいなものだからだ。たとえ詠春拳であっても。

だから僕が行っているトレーニングの傾向は、ヘッドギア・グローブ・胸当て・膝とすね当てなどを装着して、ストリート・ファイト(実戦)でより効果を発揮させる方向性を持ったものなんだ。

5年が過ぎた今、(打撃を)空振りしてしまうことになるトレーニングに浪費されてしまうのではなく、(実戦で効果的に勝利するという)目的のために最高にハードなトレーニングをやり続けてきたんだ。』

そしてついに1970年1月、3ヶ所すべてのジュンファン・グンフー・インスティテュートを閉鎖してしまい、グループによるレッスンは2度と行うことはありませんでした。以後、師祖に選ばれた非常に少ない生徒のみへ、プライベート・レッスンによるジークンドーのみの教伝がなされたのです。



posted by 松田英貴 at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | Bruce Lee
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